故郷を思いながら活躍するインドネシア人女性

2003-04-10 飯盛 洋子

昨年の12月、シンガポールでオフィス(現在は兼店舗)をオープンさせた。ここは入り口が3つあるので、一人で借りるには大きすぎると思い、残り2店舗のパートナーを探し共同で借りることにした。先月まで、そのパートナーの一人として一緒に借りていた女性がインドネシア人のUrsula Tumiwa(34歳、2児の母)さんである。

彼女はカナダの大学でITを専攻し、ジャカルタでIT専門の会社で働いていた。しかし約3年前、夫の転勤でシンガポールへやってきた。

彼女は「駐在員の妻」としてだけではなく企業家の顔ももつ。現在、ジョグ・ジャカルタに40人の社員をもつクラフト工場のオーナーだ。もう一人の共同経営者が、ジャカルタで販売店舗を運営している。彼女も、シンガポールにきて以降、オープンハウスなどを通して作品を販売してきたが、「問い合わせが多く、オープンハウスでは間に合わない。小さくてもいいから店をもちたい」ともらしていた。それを聞いた私は、彼女に共同店舗の話を持ちかけたのだ。

彼女の作品は、天然素材を使った上質なアジア雑貨である。値段の安さだけでやり取りされるシンガポールでは、彼女の作品は多少高価になる。それでも人気があるのは、やはり彼女の素材から製作過程に至るまで、こだわりがあるからだと思う。

私は彼女の活動に非常に興味をもっていた。それで、なぜ起業しようと思ったのか尋ねてみた。すると意外なことに、それは彼女の祖国、インドネシアの小さな村にまつわるものであった。

彼女は、以前Canada-Indonesia Develop Associationの派遣で、ある小さな村に半年滞在した。その時、大変なカルチャーショックを受けたという。電気も水道もない。もちろんバスや電車もない。ジャカルタからトラックに乗って、一日がかりで行くようなところで、とても貧しい村であった。

そこで、彼女はコミュニティーホールを作る仕事に携わっていた。その時、村の女性たちに、かごやバッグの編み方を教える機会を得た。女性達はすぐに覚え、いろいろと自分達のアイデアを取り入れながら、オリジナルデザインのものを作っていった。この時、Ursulaはこの村の女性達が、手先が器用で、ものを作る才能があると確信した。そして、それらを販売したお金を、女性たちへ賃金として払うシステムを作ろうと考えた。貧しい村では、現金収入になることは大変なことであった。待っているだけでは政府は何もしてくれない。自分たちで動かなければ貧しいままだと言って説得した。その後、村の女性たちも喜んで作品作りに加わっていった。こういう仕組みができたのが、2000年のことである。当時は10人の女性たち(パートタイム)で始め、現在、前述の形態にまで成長している。糸を染色している写真を見せてもらったが、昔の日本の農村風景そのもので、とても懐かしい印象を受けた。

その彼女は、また夫の転勤でジャカルタへ帰ることになった。彼女は最後までシンガポールの店をどうするか悩んでいた。欧米系の友人達からは、「あなただけ残ってお店を続ければいいじゃない?」と簡単に言われたそうだ。彼女は本当に苦しんでいた。でも、「そうはいかない」と家族と一緒にジャカルタへ戻る決心をした。彼女が悩む姿は私とも重なった。私が彼女の立場だったらどうだっただろう。やっぱり一緒に行くことを選ぶだろうと思った。

彼女の悩みを聞くうちに、私達には同じアジア人女性として共通の認識を持つのだと感じた。何も日本人だけが思っていることではない。そう思ったら、私は、なんだかインドネシアがとても身近に感じられた。

二人でいろんな話しをするうちに、「シンガポールの女性は強いけどね」という意見も一致した。私達は、西洋人でもシンガポール人でもない、私達独自の文化や慣習によって作られた環境に生まれ育った。そういう者にしか理解できない思いを共有することができたようだ。

きっとUrsulaは、インドネシアへ帰っても休むことなく、家族と折り合いながら成長し続けていくことだろう。私も彼女からたくさんの刺激をもらった。彼女に会えたことにとても感謝している。そして今後も、お互いに刺激し会える関係でい続けたいと思う。

 
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